お留守番のあとに。

チョンハが良すぎてすごい。もう宗教法人か学校法人とか開けばいいと思う

【SEVENTEEN】せぶちの本質とはなにか。

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SEVENTEENの話は難しい。

SEVENTEEN(以下せぶち)のことについて、何かまとまった話をするのは難しい。すごく難しくてなぜなのか自分でも不思議だったが、最近、それはつまり、せぶちというグループのクオリティが圧倒的に優れているからだということがわかった。
アイドルグループとして、身につけているスキルやパフォーマンス、キャラクターやサービス、雰囲気、礼儀行いにいたるまで、あまりにもよくできすぎていて、どれをとってもレベルが高すぎるために、どうしても表面的なそういう要素に目を奪われ心惹かれてしまい、本質的な特長を見逃し、見えにくくなってしまうのだ。


それでなくても、彼らはデビュー以来、ずっと自分たちで詩を書き曲を作り、振り付けを考え、アルバムのトータルプロデユースをするというクリエイティブなことができてしまうので、とことんアーティスト志望なのかと思いきや、実はそうではなく、若い子にわーきゃー黄色い歓声を浴びてちやほやされたいモテたい光を浴びたい!という、そこは普通にバリバリアイドル志望の子たちなので、このあたりの事情が、「一体せぶちとは何者か」っていう理解を、さらにややこしくわかりにくくさせているのだと思う。

 

 せぶちの本質とは、なにか。

では、せぶちの本質的な特長とは、なんなのか。それは、根底に「いいたいことがある」というところだと思う。
ざっくりいえば、表現欲とでもいうか。これこれこういう状況の時のこういう切ない思いを、世界中の人にむかって、「今俺は猛烈に大声で伝えたいのだーっ」という、すごい熱量を感じる。なにかいいたいことがあって、どうしても伝えたいことがあって、それゆえに歌いたいのだという姿勢である。これはアイドルとしてはやっぱり珍しいだろうし、発想の原点がやはりアーティストだと思う。私は、韓国語ができないこともあるけど、日本語でも英語でもほぼ歌詞というものを聞いちゃあいないし、気にもしない人間なのに、ことせぶちに関しては、あまりにも「何をそんなに…何をそこまで懸命に歌ってるんだろう・・・」と気になって落ち着かず、わざわざ翻訳詞を見に行ったくらい珍しいことをした。初めてのことだ。それくらい彼らのパフォから必死さと切実さを感じたってことだ。(結果、歌詞があまりにもよくできていてなるほどと心底感心したのだが)

K-POPアイドルの場合、活動における1つ1つの楽曲は、単なる「自分たちが有名になるための道具」でしかない。日本でもアメリカでもアイドルは同じだろうが、ことK-POPは競争が激しい分、極端なのかもしれない。男子の場合、カッコイイ曲は「自分たちのカッコイイ面を見てもらうため」に歌われ、カワイイ曲は「僕たちのカワイイ面もお見せします」のためだけに歌われ、しっとりとしたバラードは「僕たちの大人っぽく成長した姿をお見せしたい」ためだけに歌われるわけだ。いいたいことなど別にないのである。あっても、それは役者みたく、いかに「歌の主人公になりきれるか」という演技があるだけで、自分たちの本心ではない。
つまりは、活動する目的が、すべてアイドルである「自分たちの姿を見せる」ということなのだ。カムバのたびにガラリとイメチェンして、いろんな面を見せてくるのは、好きになってもらえるチャネルを少しでも増やしてるにほかならず、とどのつまりは「僕のことを好きになってほしい」ということなのだ。これが、K-POPアイドルの基本的な存在意味であり究極の目的である。「主体は、あくまで自分」。


ところが、せぶちの場合、表面的には、普通にアイドルらしく「僕らのこんな姿も見て!」という声をあげてくるけど、そもそも、「この曲ではこういうことを伝えたいっ!」という思いが、切実にそして明確にあるので、「主体はあくまで自分」とならないのである。せぶちの場合は、「主体は、曲の中の自分」ってことになってしまう。自分たちで作った曲なら、なおさら曲の中の自分は自分自身のことが多いし、いいたいことも伝えたいことも自分自身からひねり出したことなので、さらにいいたくなるだろうしメッセージは大きくなる。

非常に難しいところだし、すごく見えづらいところだけれど、こういうところこそが、SEVENTEENの本質なのではないかと、思っている。

 

 

自分たちのことをよくわかっている。

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さて。せぶちといえば、長らく続いた少年もの? 少年三部作などの10代の恋の、わくわくや切なさや逸る気持ちを歌った時期が段階的に終わり、2017年は、満を持して「せぶち大人路線」時期に突入した。デビュー当初から、ミニアルバムには、POPなものだけでなく、ロック調のものやHipHop色の強いものバラードなど、バランスよくいろいろ収録されていて、ライブでも披露してきたが、タイトル曲が「泣きたくない」、そして、「CLAP」ときて、もうほんとにこれはこれは、本格的に大人路線なんだなぁと実感した次第である。


私は、せぶちは精神的に「非常に健全で正しい上等な優等生」というイメージが強い(女子グループでいえばTWICEの位置づけ)ので、大人路線といっても、いわゆる「スレた感じ」「ワルな雰囲気」を漂わせるただの不良イメージは、あわないだろうなと思っていた。恐ろしく嘘っぽく安っぽくなりそうで。(てか、そんなことできるのかな?とさえ)それだけに、自分たちらしく大人路線に切り替えていくなんて、一体どうするんだろう。上質なライトポップスにでも?と興味があったので、普段アルバムはほとんど聞かない自分だが、「AL1」と「TEEN,AGE」は珍しくよく聞いた。
正直、最初は「なぁんだ、やっぱり、優等生なんだな~」というワルになりきれないせぶちの宿命を感じて、ちょっとがっかりしてみた私だが、そうではない。そうではなかった。あれは、ってか、特に「TEEN,AGE」は、わざとロックやHipHopをPOPにまとめあげてるんだと思う。そうなのだ。


せぶちは、もともと、「存在自体がPOP」なグループなので、実際のところは、ガンガンのロックも、ゴリゴリのHipHopも、オーケストラバックのクラシックバラードでさえもちゃんとこなす能力があったとしても、あえてやらないのだ。できるできないの問題ではない。そこは、やらないしやらなくていいってことなのだ。少なくても13人のメンバーと、会社のスタッフやプロデユーサーの考えとして、そういうコンセンサスがあるってことなんだと思う。
そんなふうに、せぶちは、自分の、自分たちのことがいろいろとよくわかってるんだなと思った。ただ単に、自分のいいたいこと伝えたいことを形にして活動したい、という強い気持ちだけで、突っ走っているのかと思ったが、意外にも、全体的なバランス能力に優れ、自分たちのことがよくわかっている人たちなんだと思う。


これまで、ほぼ全曲が、ウジ君作詞作曲によるものだったのが、今作大幅にそれが減って、その分メンバーや他者の提供が増えているのも、別にウジ君が忙しいとか限界で思いつかないとかそういうことではなく、これも、あえてそうしたんだと思う。ホシ君の振り付けが意図的におとなしく引き算してきたように。

いろんな組み合わせ、いろんな曲が次々と収録され、本当の意味での意欲作だが、誰が誰と何をやっても、結局POPになってしまうのはせぶちだからである。これはあえてではなく、どうしてもそうなってしまうというそれこそ宿命モノでどうしようもないやつだ。そこを無理して、斜に構えたワルにせず、そこは観念して、どんなジャンルでもちゃんとしたPOPにまとめあげた方がよいとする判断である。

賛否はあると思う。生ぬるいというレビューもあるだろうし、仕事が達者すぎて面白くないという意見もあろう。私だって、なにかひとつ足りない気がしないでもない。しかし、それは好き嫌いの話であって、せぶちの方向性としてはこれが正解だ。ボムズ兄さんだって、ほかではエッジの利いたアレンジができるのに、せぶちに関してはずっと微妙にダサいところにまとめるアレンジなのは、整合性あってのことだし、音楽だけですべてを表現するグループではないという証拠だと思う。つくづく、上等で健全で正攻法らしいせぶちならではじゃないだろうか。

 

でも、結局はアイドルとして存在したい(そうしてほしい)

  ここで、最初の話に戻る。
それほど、自分たちのいいたいことがあって、伝えたいことがあるというのなら、そして、それを表現するための歌も作れる振り付けもつけれる、ディレクションもプロデユースもできる。そして、自分のことも、チームのことグループ全体のこと、せぶちというものがよくわかっている、のであれば、もう単純に「アーティストになっちゃえば?」っていう考えもあろうかと思う。
しかし、もともとプレディス入所時から、全員、バリッバリのアイドル志望であり、そんな何かを表現したいなーとか何かを作って伝えたいなーとか思うような人ではなかったはず。人間なんでも最初の志がずっとものをいうもので、その後、いくらなりゆきで、自分たちで何でもできるようになっても、やはり彼らは、アイドル活動が好きだし、アイドルとして存在したいし、アイドルとして売れたいんじゃなかろうか。私、個人としては、昔から、アイドルが曲を書いたり詞を書いたりすることを、すごいなとは思うけど、そこまで大きく評価しないし、むしろ、忙しくて倒れられたりすることの方が嫌なので、その方が嬉しい。ぜひそうしてほしい。誰の曲の、誰の振り付けで舞台を仕上げても、結果的に、よいものを見せてくれれば、ファンは嬉しいと思う。自分で作ったものでないと「気持ちが入らない」とかいいだし始めると、ちょっと複雑だけど、どっちか選べといえば、今しかできないアイドルでいてほしいと思うよ。

 

プレディスという事務所、あるいは、何某とかいう代表、何年たっても私には何を考えてるのか、ポイントがいまひとつふたつわからなくて、なんともいえないのだが、せぶちには無駄にお金をかけてくれて、1つのアルバムから何本も豪華なMVを作ってくれたり、あんな情勢の中でも中華組だけフューチャーしたりMV作ったりしてくれて風変わりな事務所だと思う。どの程度、せぶちのディレクションにかかわってるのか知らないが、ある程度、メンバーの話し合いで決めたことを尊重しているのではないか。

にゅいすとのことだって、今や「素晴らしい未来予測」と褒めてるとこあるけど、あんなものただの「とんでもない博打」なだけであって、瓢箪からコマ的にうまくいって成り行きでプレデイスバブルに沸いているだけである。なりゆきだ。なので、これからも、せぶちのことに関しては、なりゆきとして、社としては、せぶちのメンバーが自主的に決めたことやりたいことを可能な限り叶えてやるというスタンスでどうか。プレディスは自分でなんかしようとすると失敗しそうだし、やたら綺麗めな格好することと綺麗めビビッドなMVを作るのだけは譲らないっていうのはわかったからそこはそうすればいいから、あとはすべて、どのグループのことも、もうなりゆきに任すという泰然自若でいけ!わかったか! と思った17年夏。プデユ以降の私だ。頼んだぞ。